● 生命の価値について
 『夜と霧』の作者として知られる、V.E.フランクルという人が書いた『死と愛』という本があります。生きていくことの価値について、3つあるととしています。

 一つは「創造的価値」 何かを行為し創造していく価値
 二つめは「体験価値」 何か、自然、音楽など、素晴らしいもの、美しいものにふれて、感動することの価値
 そして三つめが「態度価値」

 ちょっと長くなるけど引用します

 『…生命は、たとえ創造的に実り豊かではなく、また体験において豊かではなくても、根本的にはまだなお、有意味でありうる…。即ち人間が彼の生命の制限に対していかなる態度をとるかということの中に実現化されるような第三の価 値群が存するのである。その可能性の狭隘化に対して人間がどのような態度をとるかという新しい独自な価値の領域が開かれるのであり、それは確実に最高の価値にすら属するのである。かくして一見したところ現実に創造価値ならびに体験価値に極めて貧しい存在すらも、なお価値を実現するべき最後のしかも偉大な機会を持っているのである。この価値を「態度価値」とよびたいと思う。なぜなら人間が変えることのできない運命に対していかなる態度をとるか、と いうことが、この場合問題であるからである。従ってかかる価値を実現化する可能性は、一人の人間が運命に対して、それを受取るほか仕方がないような場面において生ずるのである。即ちいかに彼がそれに耐え、いかに彼がそれを彼 の十字架として自ら担うか、ということが問題なのである。たとえば、苦悩の中における勇気、没落や失敗においてもなお示す品位、等の如きである。われわれが態度価値を可能な価値のカテゴリーの中へひきいれると、人間の実存は本来決して現実に無意味になりえないことが明らかになるのである。即ち人間の生命はその意味を「極限まで」保持しているのである。従って、人間が息をしている限り、また彼が意識をもっている限り、人間は価値に対して、少くとも態度価値に対して、責任を担っているのである。価値を実現化するという彼の義務は人間をその存在の最後の瞬間まで離さないのである。価値実現の完成がたとえどんなに制限されようとも、態度価値を実現化することは可能でありつづける。…』(『死と愛』P.53-54)みすず書房

  生命の価値というのは、
 「何かをなしえること」(創造的価値)、
 「何かを感じとること」(体験価値)
  よりも、「生きねばならぬという運命を引き受けること」(態度価値)こそ、本源的で、本質的価値だとフランクルはいってるんです。


  これを読んだとき、とっても感動した覚えがあります。ちょうどそのころは、手術入院で、長いこと苦しんだ後だったこともありましたが、フランクルが、ナチスの強制収容所体験のなかで経験したことから、この考えをみちびきだしたということが身に沁みてよく伝わってきました。まさに死という絶望しか残されていないような状況下で、生きるために必要だった、あるいは、「生きていく」ことにとって、一番本質的だった価値であると感じたことを書いていることが、実感をもって感じられたんです。

  ●生きる価値における共感の持つ意味
 本題にうつります、私は、たとい障害を持って生まれてこようと、五体満足でうまれてこようと、能力差などとは全く関係なく、生きている価値というのは、それだけでも十分あるし、平等だと思うのです。健常児、障害児どちらが、優れているかなどという比較は、仮に単一の視点にとらわれずトータルで、障害児、健常児いずれが、優れているかというような比較をとろうとしても、同じことです、ワナにはまるんです。五体満足であろうと、障害を持とうとどちらが、より貴重なのか、というような比較は、「本来的に生命の価値とは平等」、という立場からすれば、どちらにせよ差別です。本質的には、健常児だから…、障害児だから…、ということは決して無く、それが生命である以上、苦しみはあるし、楽しみもあるんです。その価値は全く平等なんです。
 もちろん、だからといって障害者をめぐる社会的不平等を解決せずともよいということをいうつもりはありません。むしろ、生命としての価値と同じように、社会においても、同様な平等を求めていく必要があります。そのためにこそ「人は、うまれながらにして、自由であり、平等である」という基本的人権の考えがあるのだと思います。
 しかし、そうは言っても、障害児を育てていく、という困難さは、厳としてあるのでしょう。それを引き受けていくことに自信がないと思う人がいたとしても、それはそれで、責められない話だとも思うのです。
 なぜなら、その人なりに、誠実に悩んだ答なのかもしれないのですから、産んで欲しいと願う側も、そこは受けとめていく必要があると思うのです。まずはその人の身になって考えていくことこそ、出発点なのではないかって思うのです。
 私は、聞き下手だから、理屈ではこう分かるのだけど、対話になるとだめですね。ほんとうに、人のことを理解するということは、むずかしい。

  ●功利主義的価値観だけが全てではない
 この世の中、やった分どれだけ報われるか、報われぬか、という結果次第で価値付けする功利主義的価値により進められている面がありますね。確かに、こうした感覚は、生活感覚として必要です。私には、欠落している部分かもしれないので、より切実に思います(笑)。
 でも、それだけでは、人間は生きて行けないと思うのですよ。ただ存在しているだけでも意味があるという、本源的生命への無償ないたわりのあり方(「愛」っていうのかな)が分からないと、それも破滅すると思うのです。

 もし、「健康だから愛せる」とか「成績がよいから愛せる」とか、こういう、いわば、打算的な愛を、優生思想が生み出すとしたら、非常に問題だとも思います。それだけがコワいです。でも、そうでないかぎりは、私は、生まれて来れなかった、「いのち」 たちも、許してくれるんじゃないか?そんな風に思います。もちろん、私は、イタコではないので、あくまで希望的観測にすぎないのでしょうけど。そう信じたいですね。

 だから、どうだというつもりはありません。でも、排除されていく授精卵であれ、生まれ来れなくても、それらが存在した、ということは、絶対に無ではないし、無にしてはならないと思います。問題は、立場がどうであれ私たちが、どう受けとめていくべきなのかということなのだと思う。
 生まれて来れなかった、いのちが、何を求めてい、今も求めているたのだろうか?そういうことに、少しなりとも誰もが気にかけられるようになれば、結果はどうであれ、彼らは、救われるのではないでしょうか。

  ●生まれ得ぬ「いのち」の声のこと
 生むか生まぬかというのは、生む側の論理である以上、同じ穴の狢だと 思います。むしろ、どちらの立場に立つにせよ、生まれ得なかったものたちの声を聞こうという姿勢が問われてくるのでははないのだろうか?と思うのです。生まれてこれない、いのち、その無念さを訴える声を、今の社会に、誰が伝えていけばよいのでしょうか?代弁など、不可能ではあります。でも、だから何も考えない、というのでは、あまりにもさびしすぎます。

  ●違和感・・・
 私が、出生前問題を議論してきて、次第に顕になってきた違和感が、あります。それは、どういう立場であろうと、ここで議論に参加しているという事実自体、すでに「生まれてきた者どうし」ということに変わりない、ということ。
 「生まれて、既に現在を生きている」それ自体が、すでに「強者の側」に立つことを意味せざるをえない、ということにたいする苛立ちです。
 どうにもならぬにせよ、「生む側の論理」のみならず、生まれ得ない、いのち、の存在を離れて議論が進むと、寒々としたものが広がっていくように思います。それは、とても悲しいことだと、私は思う。

 では、どうしたらよいのでしょうか?
 私には、分からないです。でも、考える必要は、ものすごく感じています。でも、分からない・・・。困った。

前のページにもどる