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(コロンブドール)

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目次

映画監督
佐々木 康
(1908/01/25 - 93/09/13) →年譜

佐々木 康 生誕100年記念 上映会

2008年 1月25日

京都 東映撮影所内
上映会 および 記念パーティー

2008年2月2日(土) - 2月8日(金)

東京池袋 新文芸坐




新文芸坐:池袋駅東口徒歩3分
     東京都豊島区東池袋1-43-5マルハン池袋ビル3F
     03-3971-9422

楽天楽観
映画監督 佐々木康


佐々木 康 著
佐々木 真、佐々木 康子 監修
円尾 敏郎、横山 幸則 編
ワイズ出版 2003年10月 発行

映画監督 佐々木 康 年譜


明治41年(1908)1月25日 満0歳
◆佐々木康、秋田県平鹿郡沼館村沼館字沼館〈現在の雄物川町沼館〉三百十八番地で生まれる。十四人兄弟の九番目。父・佐々木謙蔵、母・ヨミ。

大正3年(1914)3月30日 満6歳
◆沼館尋常小学校へ入学。

大正9年(1920) 満12歳
◆山形県立新庄中学へ入学。新庄での寮生活が始まる。

大正10年(1921) 満13歳
◆新庄中学二年のとき、腸チフスにかかる。

大正11年(1922) 満14歳
◆康、新庄中学三年のとき、新庄の平和館で栗島すみ子主演の『虞美人草』を見る。活動写真〈映画〉に興味がわく。

大正13年(1924) 満16歳
◆新庄中学四年の正月休み明け、寮での黙読の時間に松竹キネマ蒲田映画後援雑誌「蒲田」新年号を読んでいて退役中尉の舎監に叱責される。
◆新庄中学四年を終えて弘前高校を受験するが不合格。

大正14年(1925) 満17歳
◆新庄中学五年のとき、蓄膿症で仙台の大学病院へ入院。
◆病院を一時退院し三学期の試験のみを受けて新庄中学を卒業。
◆早稲田大学を目指して早稲田の予備校へ入るが、ほとんど通わず浅草の映画館へ通う。
◆早稲田の予備校時代、五所平之助監督『青春』についての感想短評募集に入選し、松竹キネマ蒲田撮影所を見学。

大正15年(1926) 満18歳
◆法政大学文学部予科へ入学。映画研究会に所属。
◆沼館の小学校OB組織尚友会の夏休みの催しで自作自演のひとり芝居「僕の妻とタイピストと僕」を評価してくれた大塚と沼館演劇研究会を組織する。
◆「父帰る」「海彦山彦」「お国と五平」「命をもてあそぶ男ふたり」を演じる。

昭和2年(1927) 満19歳
◆法政大学予科二年のとき、映画研究会メンバーが持っていたキャメラで、大学の運動会の模様を撮影。
◆杉狂児の妻・金谷種子と知り合い、映画の撮影に入るが資金がつきお蔵入りになる。幻の処女作。

昭和3年(1928) 満20歳
◆3月10日 康の父・謙蔵、死去。
◆11月 法政大学予科二年を終え、法政大学本科国文科へ進む。
◆松竹キネマ蒲田撮影所の助監督・松井稔から「アス、カマタサツエイジョニコラレタシ」という電報を受けとり、清水宏監督の書生になる。

昭和4年(1929) 満21歳
◆徴兵検査を受ける。目が悪かったので第二乙。
◆法政大学を中退する。
◆清水(宏)組から小津(安二郎)組へ移り『大学は出たけれど』の助監督に付く。月給二十五円で正式採用になる。

昭和6年(1931) 満23歳
◆小津組『美人哀愁』のチーフ助監督のとき、先輩助監督三十数人を抜いて助監督扱いのまま監督になる。第一回作品は『受難の青春』。

昭和8年(1933) 満25歳
◆清水組『泣き濡れた春の女よ』の北海道ロケで浮田をたずねる。

昭和11年(1936) 満28歳
◆正式に監督となり『悲恋華』を監督。月給が四十五円から九十五円になる。

昭和12年(1937)4月 満29歳
◆七尾ヨシ(七尾富蔵、スカ夫妻の三女)と結婚。

昭和14年(1939) 満31歳
◆高峰三枝子主演作品『純情二重奏』再映につぐ再映で一カ月上映。
◆「改造」に連載されていた林房雄の「太陽と薔薇」を映画化しようとしたが、城戸四郎からOKが出ず、野村浩将監督が蹴った『愛染椿』を監督。

昭和16年(1941) 満33歳
◆横手で、旧制二高生だった甥・佐々木孟を案内役に石坂洋次郎原作の映画『何處へ』のロケハンを行う。

昭和17年(1942) 満34歳
◆1月3日 長男・真、生まれる。翌日、満映初のトーキー映画『迎春花』撮影のため満州へ向かう。満州でマキノ満男〈光雄〉と坪井與に会う。
◆『愛機南へ飛ぶ』撮影中に「ハハキトク、スグカエレ」の電報を受けとる。
◆12月13日 母・ヨミ死去。
◆『愛機南へ飛ぶ』で情報局長賞受賞。

昭和18年(1943) 満35歳
◆『君こそ次の荒鷲』で穂積利昌と信州へロケハンに行く。
◆8月13日 次男・武、生まれる。

昭和20年(1945) 満37歳
◆3月 - 8月1日まで製作部長を兼任する。
◆8月15日 終戦。
◆8月 終戦後数日して秋田へ疎開していた家族のもとへ帰る。
◆秋田に戻って一週間後、昭和20年9月末までに一本撮ってくれと松竹から呼び出しがあり、『そよかぜ』の準備にかかる。『そよかぜ』はヒットしなかったが、主題歌「りんごの唄」が大ヒット。
◆『新風』で検閲済の脚本に直しを入れたのでGHQのデビット・コンデに注意され、次の映画で接吻シーンを入れることを要求される。
◆11月 結成された松竹大船撮影所従業員組合の副委員長になる。委員長は野田高梧。

昭和21年(1946) 満38歳
◆10月 日本初の接吻映画『はたちの青春』を監督。実はガーゼを口にあててのガーゼ接吻であった。
◆監督をやめ製作部長になる。
◆大船撮影所従業員組合、ストライキに突入。康、組合でつるしあげられる。
◆監督に復帰し『シミキンの浅草の坊ちゃん』を監督。
◆東横映画で『男を裁く女』を監督。

昭和22年(1947) 満39歳
◆1月16日 長女・英子、生まれる。

昭和23年(1948) 満40歳
◆1月 康監督作品『懐しのブルース』大ヒット。主演は高峰三枝子、上原謙。「フルムーン」のCMのもとになる。

昭和24年(1949) 満41歳
◆アメリカ映画『絢爛たる殺人』をもとに鈴木兵吾と共同で脚本を書いた『魔の口紅』を監督。この時、東横映画で撮影していた斎藤寅次郎監督の『のど自慢狂時代』に出演していた美空ひばりの天才ぶりを目撃。
◆上原謙が松竹をやめ東宝へ行ったので大映から来た若原雅夫と高峰三枝子で『別れのタンゴ』を監督。

昭和25年(1950) 満42歳
◆淡島千景主演『女性三重奏』で秋田の佐々木家の外蔵を使ったロケを行う。

昭和27年(1952) 満44歳
◆9月 松竹をやめ東映へ移籍。東映専属契約監督第一号となる。送別会はコロムビアが開く。

昭和28年(1953) 満45歳
◆京都市右京区嵯峨天龍寺瀬戸川町七の六に自宅を購入。

昭和32年(1957) 満49歳
◆吐血して一カ月入院。

昭和39年(1964) 満56歳
◆『忍び大名』を最後に東映から東映京都テレビプロダクションヘ移籍。

昭和40年(1965) 満57歳
◆11月 「素浪人 月影兵庫」撮影中に入院。

昭和42年(1967) 満59歳
◆4月24日 長男・真、矢野康子と結婚。

昭和45年(1970) 満62歳
◆3月5日 次男・武、秋岡節子と結婚。

昭和52年(1977) 満69歳
◆6月6日 長女・英子、西田信明と結婚。

昭和54年(1979) 満71歳
◆引退。

昭和59年(1984) 満76歳
◆4月4日放映の「銭形平次」(八百八十八話の最終回)の監修者として、日本橋旅立ちのラストシーンのスタートをかける。

平成2年(1990) 満82歳
◆5月 心筋梗塞で入院。

平成5年(1993) 満85歳
◆3月31日 「悔いなし カチンコ人生」出版される。
◆5月28日 京都国際ホテルにて「映画監督佐々木康さんの出版を祝う会」
◆9月13日 急性肺炎のため死去。

平成6年(1994)
◆3月17日 映画人生に日本アカデミー賞会長特別賞が贈られる。


平成15年(2003)
10月31日 康の業績をまとめた集大成本「楽天楽観 映画監督 佐々木康」、発刊される。

【 以下 予定 】

平成20年(2008)
1月25日 康の生誕100年祭、東映京都撮影所で催される。
◆康の生誕100年記念誌、発行される。
2月2日 - 8日 康の生誕100年記念上映会、東京の池袋・新文芸坐で催される。



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